jun09000000's blog

書きとめていたもの

幻影

そこに何も無いのに
そこで心が記憶の呼び出しと想念の形成を開始し
妄想/幻覚等を生み出し
何かの存在を感じるとき
それはその者にとって絶対的に確かに「在る」とする

対象(色/見られるもの)は心(受想行識/見るもの)に触れるとき
「存在/在る」が発生する

空と心が触れそこに何も無いのに
そこで心が記憶の呼び出しと想念の形成を開始し
妄想/幻覚等を生み出し
何かの存在を感じるとき
それは色になる

また色(対象)と心の作用(受想行識/見るもの)が触れても
そのとき心の作用(受想行識)を停止させれば
色(対象)は消える

心の感受処理作用(受想行識/見るもの)の停止/可動によって
色は空になるし
空も色になる

 

色と心の接触によってはじめて色は「存在/在る」となりうる
心の作用(受想行識/見るもの)を滅ぼす/停止することで
色は存在できなくなる(消滅する/消える)

騒音が存在するとき
鼓膜を破壊し耳を滅ぼせば
騒音の存在が消滅する
ことに近い話である

耳が聞こえないものにとって
音声の騒音は存在できない
認識もできない
気にもならない
在ることがわからない
第三者に騒音があるよと伝え聞いたとしても
それは「信」の話で
耳が聞こえないものが騒音を音声の「在る」として
直観できない

 

究極的には
喜も楽も
生も
離れます
全てが滅びた処を目指します

全く何も無い処

空の処へ

言語上では語弊を招くかもしれません

言語上では"虚無"と混同し誤解を招くかもしれません

だからあえて言語で表現すると"無虚無"を付加しておきます

全ての滅と止です

ここを目指して良い意味は

生命体が永遠普遍でも何でもなくやがて死ぬからです

それが根底にあります

それだから進歩も成長も不要です

何故なら進歩や成長のために生があり苦があり快があるのではなく

苦があり快があるが故に

進歩や成長を強いられているからです

そして又いかように進歩や成長を獲得しても

全く苦は解決もされず

獲得以前の時と全く同じだけ追いかけてくるからです

 

また言語上での空と

実際に意識が到達する

空/無とは

想いの想像/予期する空/無とは

異なります

何故なら

言語上の空/無とは

それが未だ意識の到達せざる者の想像/予期する空/無だからです

また実際に意識が到達する空/無とは

意識があり

すなわち生命活動は滅びていないからです

厳密には

生命活動(意識)が在りながら心が滅びるという空/無

であるからです

全くの空無とは

自殺/死亡などによる一切の停止によってもたらされる空/無のことです

宗教的精神的空/無とは

ここに差異があります