jun09000000's blog

書きとめていたもの

数論1

 

直角三角形の斜辺の長さは
ピタゴラスの定理によって算出される
しかし通常このようなおもいつきは起きない
何故おきるかというと
この世は/この世の存在は 何か法則によって『単純』があり
因果関係を生ずる
のような発想にもとづく
それが数学である

宇宙の法などの考えも古人が数学的発想にもとづいて
数論した法則であると思われる

この世の個人の苦はほとんどその人がこの世で行ってきた結果の実から
形成されている。
孤独な人は愛を人に与えないで生きてきた結果の実を今受けているのであり
劣りの苦を受けている人は人に尊敬を与えないで生きてきた結果である
そのようにほとんどの苦はこの世の行為の自業自得(罪と罰)で説明できる

ただうまれながらの障害や奴隷の生まれや生まれてすぐ死ぬことや
あるいは子供の頃に殺される
といったことはこの世の自業自得(罪と罰/行為と報い)で説明できない

この世の自業自得(罪と罰/行為と報い)の法則を在る程度そうであると
知見/類推した古人がこのような説明できない現象について
その答えを 輪廻転生に求めたとすれば
なるほどわかるきはする。

そしてその類推はそうでありうる


ただあいつは前世悪いことをしたので今不幸なのだ
自業自得だザマーミロと思うものがいればそのものは全く輪廻転生思想を
理解していないことになる
なぜならその不幸なものを見捨て/侮蔑すればその者は罪を犯すことになり
全くその実を自分に負うからである

輪廻思想はその意味で正しく認知されれば
乞食も王もどのような者にも救いと善行しか生み出さない
全てを向上に向わせる思想であるだけである

仮にそれ(輪廻の事実)が嘘であっても本当であっても

 

欲は毒である
苦は毒である
怒りは毒である
悪は毒である

しかし
もし仮に
この毒を用いる者がいて
その者がこの毒のもたらす実と果の全貌を承知したうえで
その毒を使用する者がいれば
尊者である

ただ賢者がその毒を使用するか否かはまた別の話である

 

哲であっても言葉であっても宗教であってもかまわない
呼び名や手段はどうであってもかまわない
それはしかし最終尾が自身の苦と快という直観/知覚/に接続されていなければ

何の意味も無い

 

哲人/や宗人の求めたところは
つきつめれば
『神』と『神の法(則)』である

そしてその『求欲』の拠り所は個人的人間の『苦』である
『苦』とその解決の究極の問い/解答
が神のこととなる

どのような問題であれ究極的に遡って考え
できるだけ自分にも他人にも公平に考え
帰結するところが
おそらく誰も同じ処になる

 

そこでの
神の在り方や神の規則(法律)の説がいくつかあるとして
それが
たとえばユダヤの神であったり
キリストであったり
アラーであったり
するのならば
それは確かになるほど間違いなく宗教である
ただしかし
とくに自身で考えることもなく
矛盾も放置し
ただだれかの言ったことを鵜呑みにして
そのように生きる者ならば
それは宗教でもなんでもないし
哲学でもなんでもないし
気休めで一時的に痛みを欺いて生きる者
である

 

そしてこの問題は解決されるまで逃れられない
その証明の苦として
その者に何度でも現れる

  

神を理解し/正見し/納得してない
証拠/証明/証(しるし)として
その者の中に苦として
何度でも現れる