想いと自我
自分はこのような人間であると想っている人は
想いと自我の世界に意識が住んでいる
ということになります
自分の血液型はxx型である
性別はxxである
自分の体重はxxである
自分のふるさとはxxである
自分の貯金はxxである
自分の会社はxxである
自分の学歴はxxである
自分の好きな言葉はxxである
自分はxxが苦手である
自分の顔はxxである
自分の親はxxである
自分の得意なものはxxである
・・・・
自我とはこのように
『想念/想い』の世界にしか『存在』できません
近代西洋思考といわれる唯物論の考えは
逆にある意味非常に観念論となります
自分の血液型はxx型である
性別はxxである
自分の体重はxxである
自分のふるさとはxxである
自分の貯金はxxである
自分の会社はxxである
自分の学歴はxxである
自分の好きな言葉はxxである
自分はxxが苦手である
自分の顔はxxである
自分の親はxxである
自分の得意なものはxxである
・・・・
このような想いの世界にあるモノ/存在を『存在』『現実』『唯物』
と定義しているのですから
このような想いの世界にあるモノ/存在を『存在』『現実』『唯物』
と定義した上で考えを構築し科学を構築しています
古い東洋の考えでは
自分の血液型はxx型である
性別はxxである
自分の体重はxxである
自分のふるさとはxxである
自分の貯金はxxである
自分の会社はxxである
自分の学歴はxxである
自分の好きな言葉はxxである
自分はxxが苦手である
自分の顔はxxである
自分の親はxxである
自分の得意なものはxxである
・・・・
これを想いと扱い虚と扱い空と扱います
観念が空であると教えます
西洋近代思考では観念/想いが唯物であると教え
古い東洋の考えでは観念/想いが空であると教えています
西洋近代思考では想いを現実と認定します
古い東洋の考えでは想いは幻覚/虚であると認定します
西洋近代思考では想いの世界を現実と認定します
古い東洋の考えでは想いの外にある世界を現実と認定します
想いの外にある世界とは無想であり
意識/今/刹那/瞬間
となります
自我は記憶という想いを唯物/現実/絶対と認識します
記憶は部分的に空想で創作されます
想いによって想いの中に記憶という現実/絶対/唯物/客観を作成します
それだから永遠に自我は想いの中に住みます
逆に自我は想いの中にしか存在/生存できません
自我は想いの中に生き苦しみ喜び怒り欲し
想いの中に死にます
古い東洋の考えではそれを空/虚と呼び
想いの外にある世界に生きることを教えます