jun09000000's blog

書きとめていたもの

想いと自我

自分はこのような人間であると想っている人は
想いと自我の世界に意識が住んでいる
ということになります

自分の血液型はxx型である
性別はxxである
自分の体重はxxである
自分のふるさとはxxである
自分の貯金はxxである
自分の会社はxxである
自分の学歴はxxである
自分の好きな言葉はxxである
自分はxxが苦手である
自分の顔はxxである
自分の親はxxである
自分の得意なものはxxである
・・・・

自我とはこのように
『想念/想い』の世界にしか『存在』できません

 

近代西洋思考といわれる唯物論の考えは
逆にある意味非常に観念論となります

自分の血液型はxx型である
性別はxxである
自分の体重はxxである
自分のふるさとはxxである
自分の貯金はxxである
自分の会社はxxである
自分の学歴はxxである
自分の好きな言葉はxxである
自分はxxが苦手である
自分の顔はxxである
自分の親はxxである
自分の得意なものはxxである
・・・・

このような想いの世界にあるモノ/存在を『存在』『現実』『唯物』
と定義しているのですから

このような想いの世界にあるモノ/存在を『存在』『現実』『唯物』
と定義した上で考えを構築し科学を構築しています

 

古い東洋の考えでは

自分の血液型はxx型である
性別はxxである
自分の体重はxxである
自分のふるさとはxxである
自分の貯金はxxである
自分の会社はxxである
自分の学歴はxxである
自分の好きな言葉はxxである
自分はxxが苦手である
自分の顔はxxである
自分の親はxxである
自分の得意なものはxxである
・・・・


これを想いと扱い虚と扱い空と扱います
観念が空であると教えます

西洋近代思考では観念/想いが唯物であると教え
古い東洋の考えでは観念/想いが空であると教えています

西洋近代思考では想いを現実と認定します
古い東洋の考えでは想いは幻覚/虚であると認定します

西洋近代思考では想いの世界を現実と認定します
古い東洋の考えでは想い
の外にある世界を現実と認定します


想い
の外にある世界とは無想であり
意識/今/刹那/瞬間
となります

 

 

自我は記憶という想いを唯物/現実/絶対と認識します
記憶は部分的に空想で創作されます
想いによって想いの中に記憶という現実/絶対/唯物/客観を作成します

それだから永遠に自我は想いの中に住みます

逆に自我は想いの中にしか存在/生存できません

自我は想いの中に生き苦しみ喜び怒り欲し
想いの中に死にます

古い東洋の考えではそれを空/虚と呼び
想いの外にある世界
に生きることを教えます

ここまで書いて

誤解して欲しくないのは

こいつは頭がおかしいのではないかとか

新興宗教の勧誘か何かなのではとか

一切そういう意図はありません。(頭がおかしいかは分かりませんが)

この文章は自分がどん底状態に書き留めていたものであって

今が特に不幸でもなく、何も思うことが無い方には

心に響くような文章ではありません。

それを否定するつもりも一切ありません。

でも読んでいただけることは非常に嬉しいです。

 

得牛前の大いなる障害



あなたと自我/我/我想/想いとの攻防は
煎じ詰めればあなたとあなたの攻防です
自我/我/我想/想いはあなた自身であり
それ故自我/我/我想/想いはあなたのことを知り尽くしている者です
自我/我/我想/想いはあなたの弱みも弱点もスキも穴も知り尽くしています
あなたが自我/我/我想/想いを捕らえようとし殺そうとする時
自我/我/我想/想いはあらゆる手段を使用して
あらゆるあなたの弱みと弱点とスキと穴を突いて
あなたから逃れようとします
あなたを再び想念(自我/我/我想/想い)の世界に引きずり込もうとします
自我/我/我想/想いが自らの中にあなたを取り込もうとします
あなたが賢明なる者であればあなたの自我/我/我想/想いも
全くそれだけ賢明なる者です
実力はほぼ互角
ここに得牛/想いを捕獲し滅ぼすことの最大の難関があります

自己の心を観察することを強化する意味は
このあなたとあなたの攻防に打ち勝つための意識の力を得ることにあります

見つける

あなたがいかなる時も
あなた(想い/想念)を捕まえようと努める時
はじめはうまくいきませんが
何度も繰り返し修練をしていくうちに
それが思いのほか容易であることに気付くでしょう
何故なら(想い/想念/自我/我想)が
いつ如何なるときも
ワンパターンであることに気付くからです
あなたが誰かから苦痛を受けたとき
その時に自動的/反射的に発生する想い/想念/自我/我想は
ほとんど毎回ソックリだからです
まるで「誰かから苦痛を受けたときに発生する想念」とは
自動的に再生するカセットテープなのではないか
と思えるほど機械的な想念の再生が行われます

そしてその想念こそが
今までのあなた自身/あなたそのもの/自我です
即ち想念を捕獲したとき/気付いたとき
あなたがあなた自身をはじめて観ることが可能になります

いつもワンパターンで同じ想いを想起し
同じ展開をし
そのテープをエンドレス再生するだけの「あなた」が観えます

あなたは自分が有限の数本〜数十本かのカセットテープを所有し
何か己に事件があるとその事件のケースに応じて
特定の毎回ほとんど決まったカセットテープが自動再生されます

年をとるごとに
カセットテープの量が多少増えたり
テープの内容が多少精密詳細versionになったりしますが
基本的には幼児や小学生の頃に所有していたテープと
あまり変わらない内容のテープを再生していることに気付くと思います

この知見の処にあなたが至れば
禅/十牛図でいうところの
「得牛」という境地に
あなたの意識は至った
ということになります

      f:id:jun09000000:20121015035035j:plain

選択

愛することや生き方/行為
戒律等は
自身の中の問題であって
他人の在り方と自身の在り方の比較ではない

誰かが欲望のままに生き、怒り、また自分と異なる生き方をしたとしても
それはその者の問題であってあなたの問題ではない

魂の自由や生き方の自由はその者に自由にゆだねられる
その実/果を負うのもその者であるから

それだからあなたは自分の生き方を自分で選択することに専念すればよいのであって
誰か他の人の生き方や生き様が気に入らないからといって
その者を憎み怒り否定するならばテロリストと大差は無い

人に強いる道は何の意味も無い
殺し合いや争いを生むだけの普通の道である

普遍でもなんでもない何処にでもある邪道である

慈悲喜捨

 

慈とは他人の幸福をともに悦ぶ心

悲とは他人の不幸に同情する心

喜とは他人の善行をともに賀する心

捨とは他人の悪行に対して憎悪も共感もいだかない心(許しの心)

あなたは自分の生き方を自分で選択することに専念してください

消滅

やせ我慢は嘘で
在りのままではありません
"欲しい"が己の内に未だ在るとき
"欲しい"が己の内に在ると在りのままに知り
"欲しい"が己の内に無いとき
"欲しい"が己の内に無いと在りのままに知る

やせ我慢とは
"欲しい"が己の内に未だ在るのに
"欲しい"が己の内に無いと自分の在りのままを偽ることです

自分の心の在りのままを偽るならば
"欲しい"は無くなりません

怒っているのに怒りはないと
自分の心の在りのままを偽るならば
怒りは無くなりません

欲や怒りは
想いや行為に変化しますが
想いや行為を停止しますと
ただ苦痛だけが己の内に残留します

想いを停止しても
またしばらくすると
いつのまにか
想いが沸いてきます
欲では"欲しい"が
怒りでは
"あいつが悪い/許せない"が
何度でも沸いてきます

想いを停止し
また沸いてきたら
沸いてくるごとに
何度でもその想いを停止します

最終的には
想いは少なくなり
最後に感情と激痛のみが残留します
その感情と激痛は
苦しみを苦しむ作業で
ただ苦しみつくすことで消滅します
罪が清算され
"許し"が獲得できます

怒り/恨み/呪うとは
その想いをただ歯止め無く想い続けることです

怒らない/恨まない/呪わないとは
その想いが発生したらそれに気付いて止め
また再び発生したらそれに気付いて止め
その想いが己の内に発生するたびに気付いて止め
何度でも発生するたびに気付いて止めることです


怒らない/恨まない/呪わないとは
自分は人間ができているのでそのようなものは無いと
思い込み虚偽の報告を自分にすることではありません
やせ我慢すること/いい人を自分にも他人にも演じることではありません

また
怒りの苦しみを苦しみ尽くし
罪の清算をし
"許し"を獲得したとき
怒り/恨み/呪いは本当の意味で消滅します

 

道徳の時間にならった
怒らない/恨まない/呪わないとは
違うと驚かれる人もいると思います

道徳の時間にならったような
簡単な怒り/恨み/呪いの停止などあろうはずもありません

怒り/恨み/呪いの停止/抑止/消滅は
自らの激痛を自らが苦しみ尽くすことによって
はじめて消滅するものだからです

道徳の時間にならった
怒らない/恨まない/呪わないでは
やせ我慢する者
自分で自分に嘘をつく者
偽善者
自分をいい人間と思い込もうとする者
を生み出すと思います

道徳の授業や教え/倫理は
『人に怒らず/人を恨まず/人を呪わないとき
代わりに自分が地獄の苦しみを一時的に負い/受けること』
(罪の清算/苦しみを苦しむ)
が発生することの記述が欠落しています

それだから"道徳"では本当のことが得られないし
納得ができない
ことが多いと思います

競争

自分は競争が苦手です
嫌いです
得意では無いです

それだから今まで無意識的に
これを回避する方向で
生きてきたようにも思います

全てにおいてというわけではありませんが
所々で競争しないですむ方に走る傾向がありました

これは今思うと
自己能力の劣等意識に基づいており
能力の無さを自覚していたからであり
敗北の苦痛を知っていたからであると思います

周りにいるほとんどの人がパンを求めれば
花を求め
周りにいるほとんどの人が花を求めれば
パンを求め
周りにいるほとんどの人が遊べば
勉強し
周りにいるほとんどの人が勉強すれば
遊ぶ
わかりやすく極端に表現すればそういう生き方に近いものです

その傾向があったと思います

 

競争の勝利は果てが無く
どんなに能力があっても
いづれ必ず敗れます
また能力が無い場合
すぐ敗れます
また競争では
自分さえ良ければ良いとなりがちです
それゆえ孤独に陥りやすく
また苦しくなります
"我"と他人の壁が確固たるものになります

競争は確かに全体を結果的に向上させ
それは結局相手のためになり
みんなのためになる
それだからそれはおもやりであり愛である
ここまで見越した上でその想いに基づいて"競争"する者がいれば
その者は愛と真理を所有しており
全くどこにも敗北と苦痛は無いと思います

しかしそれは通常極めて困難な競争のあり方であり
そこまで意識を拡大できる大いなる人物は
少ないのではないかと思います

少なくとも自分にはそれができませんでした


また競争と戦いに生き
競争による敗北と苦痛を何度も乗り越え
何度も立ち上がり
ついには永遠と無上を獲得し
苦痛を克服し
最終的に競争原理の真逆の他者への愛をも獲得する
そのような境地というのは
"在る""あり得る"と思います

ただ極めて茨の険しい道であるとも思います
道中が苦しすぎると思います

それだから
自分は非競争と捨の道の方向へ
無意識的に歩こうとしていた
のだと思います

苦痛が耐えがたく
また優れた能力が無く
敗北が辛かったが故に
です

多くの人の争い求めるところ
多くの人の奪い取り合うところ
の逆を歩き
誰も求めないところ
捨てて在るものを拾うところ
を歩くとき
競争と戦闘を回避することができます


またこのような生き方を
それが意識的であれ無意識的であれ
そうして生きている人
その傾向を持つ者
はわりといるのではないかとも思います

当然この生き方では(運もありますが)
社会的成功者になることはまず無いでしょう

ただ
競争の勝利は果てが無く
どんなに能力があっても
いづれ必ず敗れます
また能力が無い場合
すぐ敗れます
また競争では
自分さえ良ければ良いとなりがちです
それゆえ孤独に陥りやすく
また苦しくなります
自分の勝利しか考えなくなり
他人を落とすことになり
他人の不幸が蜜の味になり
"我"と他人の壁が確固たるものになります
結果として
自分は苦しくなります
自分のことしか考えなくなると
自分が苦しくなります